会社からの帰り道、彼はとてつもなく我慢をしていた。急ぎたい気持ちがあるのだが、なかなか走ることが出来ない。まるでプールの中を歩くかのようにゆっくりとしか歩くことしか出来ないのだ。一部の筋肉をフル活用してはいるのだが、その筋肉を使用することに全身のありとあらゆる神経を使わなければならず、余力がだんだんと減っていっているのは自分でもわかる。しかし、早く辿り着かなくてはならない。今は自分の家に帰り着くことが何よりも大切なのだ。そうしなければ私の人格は崩壊しかねないところにまできている。もし、時間内に辿り着けなかったら…今から考えても恐ろしい。いや、そんなことを考えているヒマなどない。とにかく、家に帰らねば。
こういう、時間を気にしなければならない時ほど決まって赤信号に引っかかる。時間は刻一刻と過ぎているのにいっこうに変わる気配のない目の前の赤信号が、まるで私に死刑宣告を突きつけているような気さえする。時間は待ってはくれない。そう考え、左右の安全を確認した上で黙々と横断歩道を歩き出した。家まであと4分程度の距離になった。曲がる角はあとひとつのみ。いつもは軽々と進んでいる緩やかな坂、その頂上が今日はいつもより遠く見える。「早く辿り着きたい、いや、着かなければならないのだ」。身体が徐々に重たくなり、毛穴からは生温い汗が一滴、また一滴、ゆっくりと重力に逆らうことなく身体を伝っていく。苦しみも最高潮に達しつつある、半ば絶望的ともいえる状況で、最後の曲がり角を曲がった。
若干であるが、途中で苦しみが消えることが何度かある。しかし、再び苦しみに変わるとき、そのひとつ前の苦しみよりも大きな苦しみとなる。その度に、崩壊しないように全身の神経を集中させる。もう身体は限界だ。残された時間はあと僅か、一秒たりとも無駄には出来ない。
ようやく家に辿り着いた。あとは目の前の玄関を開けるのみ。しかし、玄関のカギが見当たらない。何故だ。いつもと同じ場所にある玄関のカギが、何故今日に限って見つからないのか。…あった。焦っているせいか、なかなか鍵穴にカギが刺さらない。もう時間はない。
扉が開いた。ようやくこのときが訪れたのだ。私は衣服を脱ぎ、喜ぶとともにトイレに駆け込んだ。
数分後…
そこには安堵の表情を浮かべた彼の姿があった。
間に合ったのだ。
そして私は、また新たなる未来へと歩き出す。
…我慢しなきゃーいいのにね。