【花】 今日は何の日だったろうか。
 5月の第二週の日曜日と言えば、泣く子も黙る「母の日」と相場は決まっているのだが、案外その当事者達すら覚えていないことが多く、非常に子ども達を困らせるもとにもなっている。
 そもそもこの祝い日の事の始まりは、『アメリカのウエストバージニア州の女性が無くなった母親の命日に、教会で白いカーネーションを配ったことが由来』で、その後、1914年にウィルソン大統領が5月の第2日曜日を「母の日」と決めたことで、世界中に広まったらしいんですな。日本では大正時代ごろから一般に広まったらしく、母親がご健在の人には赤いカーネーション、母親を亡くした人には白いカーネーションを贈る風習があったようです。だから間違っても白いカーネーションなんてものを贈ったら少し知識のあるお母さんなら激怒もんです。せっかく心を込めたのに台無し。まあ、今は色も沢山あるしあんまり気にされて無いようですが・・・これ豆知識ね。

 皆さんご存知の通り、母の日は1年に1回しかないわけで、母にとっての3大ビッグイベントのうちの一つとも言えるのではなかろうかと思います。母の日、誕生日、結婚記念日。まあ、後数十年もすると敬老の日もかかってくるんでしょうかね。私達子ども(特に男子)は、母の恩恵を受けているにもかかわらず、なかなかそれを返す場は無くて、せいぜい普通の日に母の手伝いをしようものなら、何か悪いことをしたか、何かのお願いがあるが為にやっているとか酷く計算めいたものに見えてしまうらしく、結局はそのようなイベント事が無いと大見栄を切ってやれなかったりします。
 お小遣いが月に「学年×100円」だった小学生の頃は、花になど回す余裕も無く、また全てのお年玉は親に管理されていたので当時の頭脳をフル回転させて考えた挙句出た結果が、「お手伝い券」。まあ、そんなもんだろうな。当時にしては良くやったと思う。

 話は大幅にそれるが、私のお小遣いの変遷は一部が少々捻くれていた。小学校5年から貰いだし、小学校の時は上の様であったので、まあ普通だったが、中学生になって、お小遣い交渉のときに父の提示した値段は「720円」。なんでも5年→6年で、2割増だったから6年→中1も2割増にしてみたんだそうだ。正直千円貰えると思っていた俺はがっくりしていた様で、それを見かねた父がお小遣いアップ大作戦を私に提示してきたのだ。結果、それによってお小遣いは月額1050円と大幅に増額し、当初の予定よりも多く、また税抜きで1020円までの賞品が購入できたのはある意味優越感でさえもあった(当時消費税は3%、これで歳がばれるかもな)。その決め方はシンプルかつ大胆な「阿弥陀籤」。籤の下にあった選択肢は720円、800円、900円、1050円、どうやら死んでも1000円だけはあげたくなかったらしい。てか、籤運の悪い私が最高額を当てるなんて父も予想していなかったようで、「すごいなー」といいつつ心の中では自分の小遣いが予想より(たった数百円だが)減ってしまい何度も舌打ちをしていたに違いない。まあ、その後は学年が上がる度に1500円、3000円と、少々貰いすぎなくらいにまで発展していった。それにしても、小遣いを貰うときに大きい札しかないと言われ、それと引き換えに御釣を渡していたのは私だけだろうか。

 さて元に戻そう。中学生くらいから懐にも徐々に余裕ができ始め、母の日にカーネーションの1本や2本買ってプレゼントできるようにまでなった。それは徐々に豪華になっていき、切花から鉢植えになり、渡すタイミングも凝るようになっていった。高校生の時は、母が昼の買い物に行く時間帯にこそっと抜けて、花を買いに行き、自分の部屋に隠しておいて夜何でもない時に渡すという、別に最初っから渡しておけばいいものを、買ってるそぶりを見せないようにするが為に自分の部屋を花の匂いで充満させ、夜寝辛くなったこともあるくらいの演出家だったのだ。最近は家庭も冷えきっており、当たり前のように花を渡すだけだ。それでも母が喜んでくれるのが申し訳ない。結局は気を遣わせてしまっているのだ。

 来月には父の日もあったりして、とかくこの世の中には普段想いを伝えられない人間に対してそういった機会を与えるというイベントが多くある。だからこそ、その日を上手く使って相手に気持ちをぶつけるべきなのだろうけど、なかなかもって難しい。そういう事が出来た時、私ははじめて一人前の人間になれるのかもしれないと思った、地震を2度も体感し雨が降りだして明日の健康診断が憂鬱な夜中の就寝時。
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by hidemite | 2004-07-21 01:32 | 日々思考
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